梅田さんの
『
ウェブ時代をゆく ─ いかに働き、いかに学ぶか 』
の中に、
『 「流しそうめん」型情報処理、つながった脳、働き者の時代 (p108) 』
というセクションがある。
今回のブログでは、
「ウェブ」とかとは全く関係なく、
梅田さんと私の「流しそうめん(そうめん流し)」感の違いについて議論してみたい(笑)。
上記セクションの109ページに
貧しい時代の流しそうめんは、
そうめんが上から流れてきたとき、
食べ物は貴重だから食べる量を確保してから食べ、
流れていってしまったそうめんも
まとめて後から皆で分けて残さず食べた。
という一節がある。
この話からするに、
青竹を半分に割って作った水路が斜めに固定されていて
そこを水が流れて(ウォータースライダー?)いる。
その水と一緒にそうめんも流れてゆくのをすくって食べる。
そして青竹の下流には 余分なそうめんを受けるザルが置いてある。
というのが、梅田さんの「流しそうめん」のイメージのようだ。
一般的には「流しそうめん」と言えば、
このタイプをイメージするのが普通なのであろう。
確かに、
「
流しそうめんの竹通販」
のように 流しそうめん用の竹を通信販売しているサイトもある。
このサイトにある写真が正にそれ。
ところが私の場合、鹿児島で育ったからか、
この手のウォータースライダー式の「流しそうめん」を経験したことがない。
使う言葉にしても、
鹿児島では「流しそうめん」と言うよりも、
「そうめん流し」と言う方が多いと思う。
そして私が「そうめん流し」という言葉から連想するイメージは
まっすぐの竹のウォータースライダーではなく、
無理やり例えれば、ぐるぐる回る流れるプールの超小型版みたいなものが
テーブルの上に取り付けてあって、
その中をそうめんが ぐるぐる回って流れている、
というイメージ。
鹿児島では有名な
「
指宿市唐船峡そうめん流し」
の写真を見ていただければ、すぐにおわかりいただけるだろう。
梅田さんは、ここで言う「そうめん」を「情報」の例えに使っておられ、
現在の若い世代が 無限に流れてゆく情報を
流れていくままに捨てている感覚を表現されておられる。
一方 私はというと、梅田さんの説明を読む前の段階では
『 「流しそうめん」型情報処理 』というタイトルだけから想像するに、
同じ そうめん(情報)が ぐるぐる回っていて、
その流れには上流・下流の区別がない。
「そうめん流し」の丸いテーブルについている人、誰もが、
平等にその そうめん(情報)を すくい取る(アクセスする)チャンスがあると同時に、
そうめん(情報)が足りないと思えば、誰もが、その流れの中に
そうめん(情報)を 追加することができる。
また、自分が追加した そうめん(情報)を
後で 自分自身で すくって食べることもあるし、
他人が それを すくって食べるかもしれない。
といったようなイメージを浮かべてしまった。
もちろん、説明を読めば、梅田さんが
ウォータースライダー式の「流しそうめん」のことを
言っておられるのはすぐにわかったのだが。
これも、特殊な地域性とそれによる言葉のイメージの違いに起因する、
珍しい事例であろう。
いづれにせよ、インターネットを
ウォータースライダー式にしろ、回転式にしろ、
「流しそうめん(そうめん流し)」に 例えてみるのも
(私のは半分 こじつけ だが)面白い議論であるような気がする。
【参考リンク】
カテゴリー:
シリコンバレー関連書籍
2008年1月 3日 22:56
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