昨日のブログで内田善一郎氏がお亡くなりになられたことを書いた。
今日のブログでは、
内田善一郎氏が なぜ「戦後移民の父」と呼ばれているのか、ということについて、
正確ではないと思うが、私の理解している範囲で書かせていただく。
戦争直後、内田善一郎氏は20歳代の若さで
鹿児島県串木野市の市議会議員を務めておられた。
善一郎氏は戦後の混乱で貧しさに苦しんでいた郷土鹿児島の
農業の立て直しを図るため、新しい農業について研究されておられた。
そのため、日本中の先進的な農場・農園 等を視察・研修されていた。
最終的には アメリカへの農場研修へも参加することになった。
そこでアメリカの先進的な農業を目の当たりにしてきた善一郎氏は、
鹿児島の農家はアメリカへ移民し、アメリカの先進的な農業を学ぶべきである、
という結論に達した。
しかし第二次大戦後、敗戦国であった日本からは
アメリカへ移住することが出来なくなっていた。
そこで善一郎氏は奔走し 日本政府、アメリカ政府に何度も何度も掛け合って、
アメリカへの移民受け入れを了解させることに成功した。
そして鹿児島からアメリカへの350人の移民団を結成し
善一郎氏みずからもその団長として、アメリカへ移住されたのである。
鹿児島から急にアメリカへ移住された350名の方々のご苦労は
並々ならぬものであった。
もちろん、沢山の問題も起こったが、
日夜奔走してそれらの問題を解決していったのも善一郎氏であった。
こうして、鹿児島からの移民の方々の努力の末、
例えば、モーガン・ヒル(Morgan Hill)、ギルロイ(Gilroy)、サリナス(Salinas)等に
広大なお花畑を開拓されたのであった。
このような経緯により、鹿児島からの移民の方々は、
内田善一郎氏を「戦後移民の父」として慕い、
そして善一郎氏への感謝の気持ちを忘れない。
カテゴリー:
鹿児島大学シリコンバレーオフィス
2006年7月23日 21:10
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