前回の「
アウトルック(Outlook) のデータ・バックアップ (1)」からの続き。
マイクロソフトは、アウトルック(Outlook) 用の
「
バックアップ ユーティリティ」アドイン・ツールを用意している。
このページからファイル(pfbackup.exe)ダウンロードできる。
インストレーションは通常のアプリケーションと同様に、このファイルを実行するだけ。
インストール完了後、アウトルックを起動すると、
[ファイル]メニューに[バックアップ]というコマンドが追加されている。
この新たに追加された[バックアップ]コマンドを実行すると
ダイアログ・ボックスが表示され、
データのバックアップについての設定や、その実行を指定できる。
ここでバックアップの実行を指定すると、
すぐにバックアップが始まるわけではなく、
Outlookを終了した時点で自動的にバックアップが
始まるしくみになっている。
細かな設定は[オプション]ボタンから、オプション画面を開くとよい。
そこでは、何日毎にアラームするか、バックアップするフォルダの指定、
バックアップ先の場所、等を指定できる。
ここで指定したファイル名で毎回バックアップするので、
自動的に履歴管理などをする機能はない。
必要な場合は、手動か、またはその手のツールを使って
履歴管理をするべきであろう。
また、この[バックアップ]コマンドから、バックアップファイルを直接開くことができる。
障害が発生した際は、この機能を使って、
バックアップファイルから必要な部分だけ
ドラッグ&ドロップでコピーできたりする。
このツールの使い方に関しては、@IT の
Outlookデータ・バックアップ・ツールを活用する
に詳しく解説してある。
アウトルックをお使いの皆さんは、是非参考にされて、
メールデータのバックアップ対策をされることをお薦めする。
【参考リンク】
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Mail
23:23
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前回、「
MSNメッセンジャーの問題解決(1)」で、「今後、UPnP(Universal Plug & Play) について調査したい」と書いていたが
その前に、今回の問題が解決してしまったので、それについてのレポートをさせていただく。
まず、結論から言うと、「MSNメッセンジャーでビデオ会議の画像が映らない」
という問題の原因は前回ブログで書いたとおり、
「使っているルータが UPnP(Universal Plug & Play) に対応していない」
ということであったようだ。
具体的に言うと、
問題があったご家庭のルータは、Netgear RT314 であった。
これは、結構古いルータで、調べてみると UPnP には対応していないルーターである。
そこで、この Netgear RT314 を、Linksys WRT54G に変更していただいた。
もちろん、この Linksys WRT54G は UPnP 対応である。
ルーター交換後、試してみると PC側の設定を全く変更することなく
ビデオ会議ができるようになった。
ここでの注意点としては、
Linksys WRT54G の設定画面にも UPnP を有効にするか無効にするかの設定があるので、
これを有効にする必要があるのはもちろんのことである。
また、「UPnP を有効にする」ということは、
その分セキュリティー下げることにもなるので、
この手のビデオ会議のようなアプリケーションを使う予定がなければ
UPnP を無効にしておくことをお薦めする。
今後、機会があれば、UPnPのメカニズムなどについて調査してみたいと思う。
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20:17
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今日は急遽、サンフランシスコ領事館に行くことになった。
以前、領事館に訪問したことを「
鹿児島大学教職員 来訪第1日目」で紹介したが、それが6月であった。
それ以来のサンフランシスコ領事館訪問である。
今回の訪問は、鹿児島大学シリコンバレーオフィス事務所長と一緒だった。
まだ、このブログでは、事務所長が誰であるのか、と言う点に触れていなかったと思う。
鹿児島大学シリコンバレーオフィス事務所長は、
ピクセラの 井手 祐二 社長。
井手さんも、鹿児島大学のご出身で工学部電子工学科の卒業というところまで私と同じ。
私にとっては直属の先輩にあたる。
また井手さんは、シリコンバレー日系社会、ベンチャー業界では結構有名な方で、
いろいろな講演会を行ったり、本や雑誌でも数多く取り上げられているので
ご存知の方も多いと思う。
領事館に着くと、総領事室に通された。
山中誠 総領事 と 井手さん は、これが初めてということで名刺交換をされていた。
私は前回6月に、山中総領事にお目にかかってはいるが、
まさか私のことなど覚えておられるはずがないと思い、
改めて自分の名刺を用意していた。
すると、山中総領事から「四元さんとは先日お会いしましたよね」と
声をかけられてしまい、こちらの方が驚いてしまった。
さて今回の訪問の理由は、「鹿児島大学シリコンバレーオフィス開所式」の
ご協力を頂くため。
改めて 山中 総領事 に対してより具体的なご協力のお願いをさせていただいた。
総領事からは、できる限りの協力をしていただけるというお返事をいただいた。
誠にありがたいことである。
山中 総領事は、この手の活動に非常に協力的でいらっしゃり、
次回の「ベイエリア大学間連絡会議」も、ここサンフランシスコ領事館に
場所を提供していただき、その席に山中総領事ご自身も
出席されることが決まっている。
それについても、いづれ、このブログでレポートすることになるであろう。
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鹿児島大学シリコンバレーオフィス
21:13
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私自身は普段 アウトルック(Outlook) を利用していないのだが、
普段Outlookを利用されているある方のPCの引越しと、
それとは別件で、Outlookをお使いの方からデータのバックアップについての
ご質問をいただいたのでそれについてチョット調べてみた。
ここでの注意点は、今回取り上げるのは Outlook であって、
Outlook Express ではない、ということ。
Outlook Express は Windowsにおまけで付属してるメールソフト、
一方、今回取り上げる Outlook は Microsoft Office の一員である。
この2つ、名前と画面まわりは非常によく似ているが、
データの格納方法は全く異なっているので注意が必要である。
Outlookの場合、会社などで Microsoft Exchange Server 環境で使用している場合は、
サーバー上のメールボックスにデータを保存することができるが、
通常の個人的な利用方法では、基本的に Outlook のすべてのデータは
個人用フォルダ ファイル(.pstファイル)という1つのファイルに保存されている。
全てのデータが1個のファイルに保存されるということは、
バックアップ等は単純になるが、その反面、
もし、このファイルが壊れると、
全てのデータが取り出せなくなってしまう、という危険性も含んでいる。
では、どのファイルをバックアップしたらよいか、ということになる。
Outlook のフォルダ一覧に表示した際のデフォルト表示名は、"個人用フォルダ"
と表示されている。
これを右クリックし、ショートカット メニューの
「"個人用フォルダ" のプロパティ」をクリックする。
すると「個人用フォルダ プロパティ」ウィンドウが新たに開くので、
画面下にある「詳細」ボタンをクリックする。
新たに開いたウィンドウの「パス」の欄にあるのが
バックアップを取るべきファイルのパス(名前)である。
実際にバックアップする場合は、上記のファイル1つを
別のディレクトリや別のメディア上にコピーしておけばよい。
但しこの際、アウトルックを閉じた状態でバックアップを取らなければならない。
アウトルックが開いている状態、
つまり、このファイルをオープンしている状態でバックアップを取ると、
データ内部に矛盾が生じてしまい、リストアしてもデータが取り出せない可能性が生ずる。
バックアップをこまめに、かつ、正確にとるには、
アウトルックを終了する時点でそのバックアップをとるべきであるが、
そうとは判っていても、なかなかできないのが現実である。
そんな悩みを解決してくれるアドイン・ツールをマイクロソフトが
用意してくれている。
それについては、次回のエントリーとさせていただこう。
【参考リンク】
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22:00
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今まで3回にわたり、モフェット・フィールド(Moffett Field)について調査した結果から、
私が感じたことを率直に書かせていただく。
シリコンバレーの発祥・発展の歴史として、
スタンフォード大学やターマン教授のことがよく挙げられる。
それはそれでもちろん重要なファクターなのだが、
実は、モフェット・フィールドや、それを誘致した当時の人々というのも
忘れてはいけないファクターではないか、と感じた。
『
シリコンバレー探検隊「Moffett Field Museum」(2)』
で、モフェット・フィールドの始まりについて
このモフェット・フィールドは、1930年からNavy(米海軍)が用地を入手
と、さらっと書いたが、もっと詳しく書くと、
実はその裏に面白い逸話が隠されている。
当時の米海軍も新しい施設建設の場所を、簡単にこの地に決めたわけではない。
いくつもの候補地があったそうである。
そこで、この地域のコミュニティーが地域振興を目的に
Laura Whipple 婦人を中心として、$476,679 で 1000エーカーの土地を購入し、
それを海軍になんとたった1ドルで売却したそうである。
当時、70年前のお金で、47万ドルと言えば莫大なお金である。
また、1930年といえば、世界大恐慌の真っ只中である。
そんな時分に、これだけの大金を投資したわけである。
これこそ、真の「Entrepreneurship」と呼べるのではないだろうか。
テクノロジーの発展の過程には、その是非はともかくとして、
軍事技術や武器開発が目的であることが多い。
その証拠に現在でも、モフェット・フィールドの敷地にロッキード・マーチンやモトローラ
の建物が隣接しているのがわかる。
また、モフェット・フィールドの敷地内には、NASAの Ames Research Center もある。
この様に、1930年代にスタンフォード大学の目と鼻の先
(具体的には直線距離で約10Km)に、モフェット・フィールドが出来たことは
その後のシリコンバレーの発展に非常に大きな意味を持ったと思う。
そのようになったのも、
当時この地に住んでいた人々のEntrepreneurshipによって実現したわけである。
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その他のシリコンバレー関連活動
14:25
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この「Moffett Field Museum」については、1日分のエントリーで十分と思って書いていたら、
調べて行くと、どんどん長くなってしまうので、
既に第3話となってしまった。
さて、あの巨大な「ハンガー・ワン(Hangar-One)」をどう使ったのか、
なぜ、当時の海軍はあのような格納庫を建設しなければならなかったのか、
ということについて。
結論から言うと、その当時の軍事飛行船 メイコン号 (USS Macon) の
母港とするのが目的であった。
全長785フィート(約240m)の巨大な船体を収容するためには、
さらに巨大な「ハンガー・ワン(Hangar-One)」が必要だったわけである。
その当時の飛行機には長距離大量輸送の能力がまだなかったため、
飛行船こそがその手段と考えられていたからである。
メイコン号は、1933年10月16日より、このモフェット・フィールドを新しい母港として利用するようになった。
このメイコン号は、ジョージア州の都市 Macon から名づけられた飛行船で、
これは当時の海軍省の大臣がジョージアから選出の下院議員であったという
非常に政治的なネーミングである。
飛行船は、その表面の素材により、
表面が固い硬式飛行船と、非硬式飛行船に分けられる。
メイコン号は硬式飛行船に分類されるが、
これはその開発者にちなんで、
「
ツェッペリン(Zeppelin)飛行船」と呼ばれている。
この巨大なメイコン号には、
5機の スパローホーク(Sparrowhawk) と呼ばれる小型飛行機を搭載。
上空で発進させて偵察飛行をおこない、再び船内に収容するという
当時としては大胆な事を行っていた。
これを無理やり例えるなら、
宇宙戦艦ヤマトで、ブラック・タイガーやコスモ・タイガーII等の艦載機が
発進したり着艦したりするイメージ。
では、実際の発艦・着艦はどうやっていたかと言うと、
まず発艦するためには、
メイコン号の下側部分のハッチを開けて、そこからパイロットが乗った小型機を吊り下げる。
それからエンジンを回す。エンジンが温まり飛行態勢に入った段階で、パイロットが自分で自分の機体を切り離す。
滑走路もなく飛行船から急に大空に飛んでいくのは結構スリリングであったであろう。
さらに難しいのが着艦する際である。
ちょうどブランコの様な物をメイコン号の下側部分に垂らしておく。
着艦したいスパローホークは、飛行船と同じスピードで飛行しながら、
2枚ある羽の上についているフック(ちょうどハテナマークのような金具)を
そのブランコに引っ掛けるのである。正に「空中ブランコ」の曲芸技なのである。
それからこのメイコン号には、もう一つ装備があった。
それを英語では「spy car」と表現している。
宮崎駿の天空の城「ラピュタ」で
空中海賊ドーラおばさんの母艦タイガーモス号が
ムスカ率いる艦隊に見つからないように雲の中を航行しながら、
見張り台の凧に主人公パズーが乗って、
雲の上から見張りをしていたのを覚えておられるだろうか。
これは凧だったので、母艦より上に上がっている格好であったが、
メイコン号では逆に、1000フィートのケーブルの先にゴンドラを付けて吊り下げ、
そこに見張りのクルーを置き、洋上を監視していたそうである。
そんなメイコン号も1935年2月11日に事故を起こし、
これがアメリカ軍での最後の軍事飛行船となってしまった。
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17:05
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モフェット・フィールド(Moffett Field)の米軍施設内に入ってからは、
「
Moffett Field Museum」のページの地図のとおりに進めば
博物館にたどり着ける。
館内にはこのモフェット・フィールドにまつわる歴史的な品々が
セクションごとに展示してあり、
その一角が小さな売店になっている。
そこでは、退役軍人の方々がボランティアで説明員をされており、
我々一行にもお一人の方が説明員として付き添ってくれた。
では説明員の方のお話しで理解できた部分と、
もらってきたパンフレットの内容から
簡単に説明してみよう。
このモフェット・フィールドは、1930年からNavy(米海軍)が
用地を入手し、翌年1931年10月5日に着工している。
当時ここは 「NAS Sunnyvale」(おそらく、NASは、Naval Air Station の頭文字)
と呼ばれていた。
軍事飛行船の基地として建設されたこの施設は、
1933年4月12日から運用を開始した。
その直前、1933年4月4日に軍事飛行船アクロン号(USS Akron)の事故により
亡くなったMoffett大将にちなみ、
この滑走路には モフェット・フィールド(Moffett Field) という名前が付けられた。
その後、1942年4月20日には、「NAS Sunnyvale」から「NAS Moffett Field」に名前が
改められている。これは、海軍の中でも人名が基地の名前に付いている数少ない例である。
それから、ハイウェー101から見てもその大きさが見てとれる、あのドーム。
あの巨大な格納庫の正式名称は「ハンガー・ワン(Hangar-One)」と呼ぶのだそうだ。
長さ1,138フィート(約347m)、幅308フィート(約94m)、高さ198フィート(約60m)。
フットボール場7つ分もの広さだそうだ。
それから特徴的なのがその扉である。
英語では 「Orange peel doors」 と表現されているが、
ちょうど、みかんの皮の形をした扉が左右に開く構造になっている。
扉の重さは片方で500トン。
扉の開閉には左右それぞれに150馬力のモーターで動かしているそうである。
70年以上前、つまり、第二次世界大戦前に、
これだけ巨大な施設を既に建造していたとはハッキリ言って驚きである。
では、この「ハンガー・ワン(Hangar-One)」をどう使ったかについては、
続きとさせていただこう。
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